【ネパール・トレッキング編】アンナプルナ山群と温泉を目指して

目次

1日目 ポカラ(Pokhara)〜ビレタンティ(Birethanti)

朝6時に起きた。

同室のイワキさんとササヅカさんは陸路でインドに入国するため、国境の町スノーリに向かった。そして僕もトレッキングに向かう。我がドミトリーは全くの空室になった。

僕はトレッキングに持っていかない余分な荷物を、しばらく滞在するという日本人バックパッカーに預ってもらうことにした。こういうときは、会ったばかりであっても、日本人が一番信用できる。

9時にゲストハウスをチェックアウトした。

トレッキングに行くのはいいのだが、僕は風邪が完治していない。昨日一日、鼻をかみっぱなしで、トイ レットペーパーを半ロールも使った。相当な量の鼻水が出たはずなので、トレッキングの前なのに少し痩せてしまったんじゃなかろうか。おまけに中国製の藁半紙のような粗い紙質のトイレットペーパーだったので、鼻がすりむけて痛い。

待ち合わせをした10時にはまだ早かったが、僕は「オヤジの店」へ行き、チャイを飲みながら、ミタさんを待った。

しばらくすると、顔見知りの日本人が通り、一緒にチャイを飲み始めた。それからまたしばらくしてミタさんとオカジマさんが現れた。さらにしばらくして、ナセントの隣のホテルに泊まっているという日本人女性がやってきた。全員この「オヤジの店」で知り合った日本人旅行者だ。

賑やかにワイワイとおしゃべりをして、みんなに見送られて、僕とミタさんはポカラを出発した。

ここからのニューバススタンドまでタクシーで行く。僕たちは明朗会計なメーターがついているタクシーを探して乗った。

ニューバススタンドに着き、ビレタンティ行きのバスに乗る。

バスの中はガラガラだったが、発車する時間になると立つ人まで出てくるくらいに満員になった。

どんどん人が増え、2人用のセパレートシートに3人が腰掛ける。2つしかないシートに3つ番号が書いてあるのだからたまったものではない。しまいには羊も乗り込んでくる始末だ。

2時間くらいでナヤンプルというところに着いた。

僕たちのトレッキングはここから始まるのだが、今日の宿はビレタンティであり、ナヤンプルから歩いて30 分のところだ。

ビレタンティは、モディー・コラー川が流れる、標高は1,037mの小さな村だ。

僕たちはFishtail Lodgeの主人に誘われるまま、そこに泊まることにした。この辺りは協定を結んでいるのか、どのホテルも同じ料金でやっている。

ディスカウントの交渉の末、ツインの部屋が通常の60ルピーのところを30ルピーにしてもらった。

主人は他の人には内緒、バレたら罰金1000ルピーを払ってもらわなくてはいけないと言ってきたが、どうせ嘘だろう。

早めの夕食を食べると、ミタさんはすぐにモディー・コラー川で釣りを始めた。寒いのに釣りのことになると目が輝いている。釣りキチのようだ。

今日の釣果はアサラというネパールの淡水に住む在来魚が3匹だという。ただし、彼のルールとして20センチ以下はリリ ースすることになっているので、食べることはできなかった。

2日目 ビレタンティ(Birethanti)〜ウレリ(Ulleri)

部屋に電気がないものだから、どうしても早く寝てしまう。

ヘッドライトで本を読めるくらいの明るさは確保できるのだが、電池がもったいなくて長い時間は使用したくない。ロウソクだけでは何もできない。

早く寝た分だけ、早く目覚めるが、暗く、寒いので、シュラフの中から出ることができない。

朝食は8時に頼んでいた。チャパティ2枚とホットレモンの軽い食事を済ませて、9時ごろ出発をした。

本日の行程は、標高2,073mのウレリまで、約5時間のトレッキングになる予定だ。

じっとしていれば風が冷たいのだけど、バックパックを背負って歩き出すと暑くなる。レンタルしてきたダウンジャケットもセーターも脱いで、 デニムの長袖のシャツの袖までまくり上げて歩くことになるほどだった。

標高1900mの尾根に開けた町・ヒレ(Hille)に着いたのが11時頃で、その手前から急な石段が続く。

僕たちの行くタトパニまでのコースでは、ウレリまでの道が一番きついそうだ。先はまだ長いので、ヒレで昼食を取ることにした。

ヒレのレストランの2階に偶然日本人のカップルがいた。昨日カトマンズから夜行でポカラにやってきて、そのままトレッキングに出かけたというハードスケジュールである。彼らはガイドを雇っていて、3人で行動している。

少し会話した後、僕たちよりも少し先にレストランを出発した。

30分ほどしてから、僕たちも出発したが、すぐに追いついた。女の子の方が遅いペースで休み休み行くので、かなりゆっくりなペースになっているようだ。

彼らが雇うガイドはゴミンダといい、40歳くらいのベテランのように見えたが、話してみると27歳という。体力が有り余っており、常に喋っては笑っている。

僕とミタさんも、ゴミンダにずっと話しかけられていたので、いつのまにか一緒に行動することになっていた。

山はことごとく段々畑が作られていて人が住んでいる。ロバが荷を運び、子供たちは「フォト、フォト」と写真をせがみ、その後で1ルピーを請求してくる。あるいは「スイート」とか「ペン」とかを請求してくる。何でも欲しがる子を見て、安易に物をやるのはいけないということを痛感する。

3日目 ウレリ(Ulleri)〜ゴレパニ(Ghorepani)

7時になると、隣の部屋で寝ていたガイドのゴミンダが「マウンテン、マウンテン」と僕たちの部屋のドアを叩く。窓の外を見ると、雪の山がきれい に見えていた。

ゴミンダにどの山かと訊くと、アンナプルナサウス(Annapurna South)とヒウンチュリ(Hiunchuli)だという。

アンナプルナ山群は、アンナプルナI(8,091m)、II(7,937m)、III(7,555m)、IV(7,525m)、サウス(7,219m)などの複数の山を指す。一番高いアンナプルナIはアンナプルナサウスに隠れて見えない。マチャプチュレ(エベレスト)も東の方にあり見えないだけど、綺麗な雪山が少しでも見えるのは都会に住む者にとっては嬉しいものだ。

今日は9時にスタートするつもりだったので出かける準備をし8時半ごろ朝食をオーダーした。

薪をくべた2つのかまどで料理をするので時間がかかる。そして僕たちよりも先にカナダ人のカップルがポテトとか卵とか トーストとか、いろんなものを頼んでいたので、僕たちのトーストが出てきたのは9時20分ぐらいだった。トーストといっても日本でいう食パンではなく、練ったものを広げて焼いてくれる。チベタンブレッドというらしい。

出てきた朝食を10分で平らげて、僕たちは9時40分にウレリを出発した。

ビレタンティからウレリまでの急な登りではないが、ウレリ 〜ゴルパニも登りばかりできついコースである。

山の上は寒い。

歩けば暑くなり、汗もかくのだが、止まると汗で濡れたシャツが余計冷たく感じ、とても困る。

昨日の昼過ぎから5人のパーティーになり、なかなか思い通りのペースにならない。ゆっくりなのは全然構わないのだが、休憩、とくに昼食を取るタイミングが難しくなった。

11時すぎにレストランが並ぶところを通ったが、食事をした後は調子が崩れるとかで、ゴレパニ(Ghorepani)まで一気に歩くことになった。個人的には空腹の方が調子が崩れるのだが、グループで行動することになったので、なかなか言い出せない。本心としては、どうせすぐ追いつくから、僕だけ食べていく、と言いたいくらいだった。それくらい、僕は腹が減って足に力が入らなかった。

標高2,858mの町ゴレパニに着いたのは13時半を回っていた。

アンナプルナ山群が近くなり、綺麗にはっきりと見えるのは嬉しかった。ただ、それ以上に腹が減っていた。景色に感動するよりも、昼食をがっついた。

ガ イドのゴミンダが決めた宿はPoonhill Guesthouse。薪のヒーターが置いてあり、暖を取れるのもありがたかった。ゴレパニの宿にはほとんどヒーターがあるらしい。

4日目 ゴレパニ(Ghorepani)〜タトパニ(Tatopani)

朝の5時、外がまだ暗いうちに僕たちは起きて、プーンヒル(Poon Hill)を目指した。

月の明かりが強く、懐中電灯なしでも十分に道が見える。

プーンヒルは、有名な絶景スポットだ。標高は3000メートルを超え、富士山の高さのようだが、360度パノラマのヒマラヤの絶景が楽しめるとのことだ。

ゴレパニからでも十分にいい景色だったので、ゴレパニからプーンヒルまで約1時間かけて歩くことについて、眠い、寒い、しんどいという感情の方が強くなっていた。

丘を登っている間、僕はずっとそんな気持ちだった。

5時20分にプーンヒルゲストハウス を出発して、6時10分にプーンヒルに到着。

月の光に照らされて、山が浮かび上がって見える。

日の出は7時頃なので、到着が早すぎたのか、他 のツーリストはいない。とても寒く僕は「デレジャロ」と繰り返した。「デレジャロ」とは、ネパール語で「とても寒い」という意味だ。ゴミンダに教えてもらってから、僕はよく使っていた。

星も少ない。月明かりが強いためだろうか。

 7時前になると欧米人ツーリストがガイドとともにどんどんやってきた。行商人のようなカゴを額に引っ掛けるように持ってきたネパール 人は、そこからポットをいくつか取り出してコーヒーとココアを売り出した。

「デレジャロ」の僕はココアを買った。少しぬるくてココアの粉が入りすぎて甘い。1杯50ルピー。街の2倍から3倍の値段であるが、こんな山の上で温かい飲み物がいただけるのはとてもありがたい。

御来光そのものの姿はなかなか見えないが、辺りはどんどん明るくなっていく。明るくなるのと同時に、丘の下に雲海が広がって、周りに雪の山が重なっているのも明らかになっていく。天の国に近づいたようだ。

写真を撮りまくる。来るまでの寒い、眠たい、しんどいという気持ちは、どこかへ吹っ飛んだ。

しばらくして、赤くて丸い太陽が顔を出した。

ヒマラヤの白い山から出てくるのではないので、少し残念であるが、きれいな日の出である。みんなが暗いうちに起き出して、1時間近く歩いて登るのがよくわかった。

確かに日本では拝むことができない景色だ。

宿に戻ると、ストーブがたかれてある。

寒がりの僕は、ストーブの存在がとてもありがたく、そのそばから離れられないのだが、宿の人たちは 厚着をしているわけでもないのに、ストーブに近寄らない。とてもたくましい。

ポテトの朝食を食べ、ゴレパニを出発する。本日の行程は、標高1,189mのタトパニを目指す。「タト」は「熱い」を意味し、「パニ」は「水」を意味するそうだ。つまり「熱い水」=温泉だ。

この寒さの中で入る温泉を想像すると、出発する前から早く温泉に浸かりたくて仕方がなくなる。

ビレタンティから ゴレパニまでずっと上りで、ゴレパニからタトパニまでは下りである。雪が積もりカチンコチンに固まった道を下っていくのは怖いのだけど、登りに比べると何倍もマシである。

ガイドのゴミンダは登りも常に笑っていたが、下りでは歌まで歌いだした。彼は日本語が全くできないが、英語でどんどん話に入ってきて、少 しも違和感を感じさせない。

1時間半下ると、ゴミンダは民家の人とネパール語で何かを話し、僕たちに「こっちから行こう」と言い、民家の畑を横切っていく。近道だそうだ。

普通のトレッ カーは通らないような畑のあぜ道であったり、民家と民家の間の細い道を歩く。そして足元にある村の集落を指差して、あの村は上から2番目のカーストでソルジャーの階級にあたる。そしてあっちの小さな村は一番下のカーストであるスーダラの村だと説明する。

またしばらく下っていくと、またさっきのソルジャーの村を指して言う。

「今からあの村へ行く。マイハウスがあるんだ。君たちを招待する。マイハウスでダルバートをご馳走するよ」

なんと、ゴミンダの実家がここにあり、招待してくれるという。

ゴミンダは僕たちを驚かせたかったみたいで、そう言いながら僕たちの顔の変化を期待しているようだった。

僕がヤッホーと叫ぶと、ゴミンダもヤッホーと飛び上がった。

子供の頃遊んだような獣道のような道を下り、ガラという村に着く。

子供たちが珍しそうに見る。その子供たちの中の2人の女の子を指差して「マイドーター」と言う。

ゴミンダには2歳と5歳の娘さんがいるのだ。ゴミンダはカトマンズに住んでいて部屋も借りているらしいのだが、嫁さんと娘たちはここに住んでいる。嫁さんと娘以外にもゴミンダの父親と爺ちゃんと婆ちゃんとその他どういう関係かわからないが、2、3人の男もいた。

ゴミンダは単身赴任だろうか、その辺は僕の英語力では聞くことができなかった。

村の子供たちはみんな寒そうな格好をして、中には ガタガタと震えている子もいる。鼻水を垂らし、もの珍しそうに僕たちの周りに集まる。

あまりに寒そうなので、何か着るものをあげようかと思うが、一人にあげると全員にあげなければならず、しかもあまり物を請おうとしない子供たちに物を請う習慣をつけさせてしまうので、かわいそうだ が思い留まる。

ゴミンダは寒がりな僕たちに熱いチャイを入れてくれ、 アゴはいるかと訊いてきた。アゴとは「火」のことだ。僕が激しく頷くと、ゴミンダは薪を燃やしてくれた。

周りには枯草がたくさんあり、またトウモロコシの食べた後の芯を乾燥させたものを着火剤代わりにし、火はすぐに大きくなった。

寒そうにしていた子供たちやおじいちゃんたちも集まってくる。火をつけることはとても簡単なのだが、少し寒いくらいで薪を燃やしていたらすぐに燃やすものがなくなってしまうので、日中は寒くても我慢しているそうだ。

ガタガタ震えていた子供は火に当たるとたちまち元気になり、そこらへんに埋まっている小さな大根を引っこ抜いてボリボリと食べ始めた。逞しさを感じる。

ゴミンダはダルバートをご馳走してくれると言ったが、2時間経ってもまだ出てこない。

 12時にゴミンダの実家に着いたのに、14時を回っても まだ昼食を食べさせてもらえない。僕たちは腹の心配もあるが、タトパニに明るいうちにつけるのか心配になった。

14時20分頃ようやくダルバートを食べさせてくれた。

決して裕福とは言えない暮らしだと思うが、山盛りのご飯に、ゴミンダとその家族の気持ちが分かる。

あまり食べすぎると後半歩くのが辛くなるので、一杯でごちそうさまをするつもりだった。だが、招待したゴミンダは、できる限りのごちそうをしたいようで、「なぜもっと食べないんだ? おいしくないか?」と残念そうにする。

僕たちは好意に応えるべく、おかわりを食べることになった。おかわりも山盛りご飯だったので、本当に満腹になった。

親切はとても嬉しいのだが、困る時もある。

結局、ゴミンダの実家を出発したのは、15時になった。

カリ・ガンダキ川に渡された吊り橋を2本渡る。

僕は高所恐怖症ではあったが、吊り橋なんかは怖くないと思っていた。いざ渡り始めて下を見ると、とんでもなく怖くなり、足場の板を信用できなくなった。みんな景色を見ながら悠々と渡るのだが、僕一人だけ手すりにしがみついてそろりと渡った。

吊り橋を渡りチェックポストを過ぎると、タトパニの町である。商店も銀行もあり立派な町だ。

Namaste Lodgeに着くと、荷物を置いてすぐ温泉に行った。

日本のように素っ裸で入る習慣がないので、僕たちも腰に何かをつけなくてはいけない。

僕は海水パンツを持ってきていたが、他はみんな下着のまま入っていた。欧米の女性は下着で入るか、足だけお湯につけていた。

お湯の温度は熱すぎず、ぬるすぎず、ちょうどいい。やっぱりホットシャワーなんかより、湯に浸かるのはよっぽど気持ちがいい。

温泉から上がると体 が温かくなって、喉も渇いていたので、思い切ってビールを飲んだ。久しぶりの風呂上がりのビールだ。とても落ち着いた気分になる。

夕食の時、 ゴミンダが絵はがきを書き出した。 僕たちに「Don’t Look」という。ゴミンダが僕たちに何かを隠すのは珍しい。

2枚書き終わって封筒に入れている。 僕たちは愛人に書いているのかとからかった。

「違う。ジャパニーズフレンドに書いたのだ」とゴミンダがいう。

彼はハガキの上に書いてある名前のところを少しだけ見せてくれた。

そこには僕の名前と書かれてあった。明日、ゴミンダたちはジョムソンの方へ登って行く。

そして僕とミタさんはタトパニでもう一泊し、その後ベニーを通ってポカラに帰る。

明日でお別れになる僕とミタさんにメッセージを書いてくれたということらしい。

僕とミタさんはクライアントでもなんでもないのに、一生懸命サービスしてくれる。逞しくて、明るくて、優しくて、泣かせる男である 。

ゴミンダは、今回のトレッキングを物語にした歌を歌ってくれた。ネパールの詩だという。内容はほとんど、ていうか、まったく分からないが、ゴミンダの心遣いはよく分かる。最後まで泣かせる男である

5日目 タトパニ(Tatopani)

ゴミンダたちがジョムソンの方へ向かって出発した。道のりは長いらしく、7時に起きて8時に出発して行った。

ゴミンダ以外の全員が筋肉痛である。足の疲れが2日後にやってきたのか、それとも温泉に浸かって筋肉の緊張が緩んでしまったのだろうか。

ゴミンダと握手をして別れた。その際にチップをそっと渡した。ガイドを雇ったつもりはなかったが、結局のところ、一緒に行動させてもらって、いろいろ助かった。

ゴミンダたちがいなくなり、僕は温泉に行った。 外国人は朝シャワーを浴びる人が多いのに、温泉の朝風呂は少し違うのか、ネパール人しかいない。僕は温泉に浸りながら本を読んだ。

なんとゆったりした朝なのだろうか。

タトパニの気温はポカラと同じくらいで、とても過ごしやすい。

Namaste Lodgeのウェイターが日本人の僕たちに話しかけてきた。日本人の女の子 の友達がいるという。ネパールの女性と外国の男性がカップルになるというのはあまり聞かないが、その逆はすごく多い。ネパールの男性はよく日本人女性を口説くから、そのパターンが多いのかもしれない。

そのウェイターはボソボソと英語でよく喋る。21歳で大学生らしいのだが、 金が欲しい、金が欲しいという。

ネパールでは大金を得ることができないので、日本に行きたいという。2年前にその日本女性と一緒に日本に行って職を探したが、見つからなかったらしい。僕にいい方法はないかと訊いてきたが、無責任なことを言えるはずもないので、わからない、とだけ言った。

カトマンズやポカラにはツーリストが多いので、一生懸命サービスの勉強をしたら、ネパールの中で大金 が得られるはずだということを僕が言うと、そういう仕事は好きじゃないという。どんな仕事がしたいのだと訊ねると、コンピューター関係だという。

だがコンピューターも触ったことがないという。外国でコンピューター関係の仕事に就くのは今の君では無理じゃないのか、と言ってやったが、彼 は金が欲しいとだけ繰り返す。

「金が全てじゃないぞ」とつい思ったことを口にしてしまった。

ありふれた言葉だ。ホテルのレストランで高いものを食べながら、ア ホな日本人が言っても何の説得力もなかった

6日目 タトパニ(Tatopani)〜ベニ(Beni)

筋肉痛がまだ治らず、階段の上り下りが大変である。

今日の行程はタトパニからベニーまでで、ほとんど平坦な道が続くので楽勝のはずだった。ただ道のりは長いので時間がかかる。

パーミッションが2週間分あるので途中いいところがあれば泊まっていくつもりだったけど、目ぼしいところはなかった。

カリ・ガンダキ川に沿ってただただ進む。ヒマラヤはほとんど見えない。素掘りの道があったり、崖崩れがあったり、ハイキングのようなコースだ。

途中近くに住むというネパールの青年と一緒に歩いたが、彼はビーチサンダルでガンガン歩く。歩いて1時間以上のところを往復するのに、ビーチサンダルで近所の公園にでも散歩に行くような格好である。

重たい荷物を額に引っ掛ける運び屋の人もサンダルである。女の人はかかとが少し高いつっかけで山道を歩いていたりする。

彼らは普段裸足で生活しているので、遠出をするときはサンダルでも十分のようだ。

そういえば昨日の夕食をとったレストランで会話をしたチベット人は、ビレタンティからタトゥパニまで6時間半でやってきたという。ガイドの仕事をしているらしいが、荷物がなくて自分のペースで歩くとそれだけ早いのだ。僕たちが4日かかった道のりを、1日でやってしまうのだからすごい。

今日のトレッキングは一番疲れた。これまでの疲れが溜まっているのだろう。天気が良くて太陽が気持ちよかったのは救いだった。

ベニに着いたのは15時半だった。立派な町である。ポカラのオールドバザールのような活気がある。

僕たちはNamaste Lodgeのカネカネカネと言っていたネパール人に紹介してもらったDolphin Hotelに泊まることにした。ツインの部屋で80 ルピーと言われたが、紹介してもらった名刺を見せると60ルピーにしてくれた。

何もする気になれず、僕は早めの夕食を摂ると、すぐに眠りについた。明日、ポカラに戻る。

7日目 ベニ(Beni)〜ポカラ(Pokhara)

カリ・ガンダキ川を渡ってトラックが何台か止まっているところで、ポカラまで行きたいから乗せて欲しい旨を伝えた。

フロントガラスを磨いていた少年に英語は通じなかったので、英語の話せるネパール人に通訳してもらい、値段を訊ねた。

200ルピーだそうだ、と通訳してくれたネパール人は申し訳なさそうに言った。

トラックをヒッチハイクすれば30ルピーだとDolphin Hotelの主人は言っていた。僕たちは完全に足元を見られた。ふっかけるにしても桁が違う。話にならないと日本 語で吐き捨てて、その場を去ったが呼び止められることもなかった。

別のトラックにアタックすると50ルピーと言われた。相場が30ルピーだろう、と言って交渉してみたが、全く受け付けてくれなかった。

パーフェクトに足元を見られている。僕は無性にムカついた。たかが、50ルピー。日本円で100円ほどなので、ぼったくられている金額も40円とかだ。だが、そういった日本での金銭感覚は捨て、あくまでもネパールの価値観で考えると、この上なくムカついた。

僕は意地でも余分な金を払うのがいやで、歩くことにした。ミタさんはどっちでもいいという感じだったので、僕と一緒にバグルンまで2時間半かけて歩いた。

途中3台くらいトラックが僕たちを追い越して行ったが、荷台がガラガラにも関わらず、全く止まろうとも、声をかけようともしなかった。

ツーリストが嫌いなのだろうか、それとも本当にめんどくさいのだろうか。

バグルンからバスに乗った。

11時半発のバスが休み休み走り、ポカラに着いたのは16時であった。

ダムサイドに着くと、まるで我が家に帰ってきたような気分になった。

「オヤジの店」では相変わらず、オカジマさんたちが賑やかに集まっていた。

僕たちが店に入り、ただいまというと、おかえりと、「オヤジ」も一緒になって喜んでくれた。

ポカラはアットホームである。

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