【ネパール・カトマンズ編その2】21歳の夢

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カトマンズへ帰還

ナガルコットを10時に出るバスに乗り、往路と同じようにバクタプルで乗り換える。バスは相変わらずボロボロで、道も悪く、振動で体が左右に揺れる。隣の席に座った現地の老人は、平然とした顔でじっと前を見つめていた。これくらいの揺れには慣れっこなんだろう。僕はなるべく体を固定しながら、窓の外の景色を眺めた。バスが山を下るにつれて、霧が少しずつ晴れ、バクタプルの町並みが見えてきた。

12時ごろにカトマンズへ到着。しかし、今回はストーンハウスロッジへは戻らなかった。正直、あの宿は安いのが取り柄だったが、あまりに汚すぎる。値段も大事だが、もう少しくらいまともな環境に身を置きたい。ジョッチェンという通りでに宿を探すことにした。

いくつか宿を見て回るつもりだったが、120ルピーでダブルの部屋があり、共同ながらホットシャワーも使えるという宿を見つけ、即決した。さらに、部屋には机が備え付けられていた。旅をしながら日記を書くには便利だ。

宿の近くには安い食堂があると「地球の歩き方」に書かれていたので、昼食を取るために外へ出た。だが、目に入る店はあまりにも庶民的すぎて、正直入りづらい。現地の人々が無言で食事をしている姿を見て、戸惑ってしまった。せっかくネパールに来ているのだから、こうした店に入るのも旅の醍醐味なのだろうが、どうにも勇気が出ない。

しばらく歩き回った末に、小籠包のような食べ物を出す小さな店を見つけた。二人掛けの椅子が二つ並んでいるだけの極めて狭い店。畳三枚分ほどのスペースしかなく、そのうちの一畳分はカーテンのような布切れで仕切られている。おそらく店の奥が家族の生活スペースになっているのだろう。店の人が皿に小籠包を10個乗せ、カレーをかけてくれた。口に運ぶと、中国の小籠包とインドのスパイスが見事に融合した味が広がる。ネパールならではの独特な味わいだ。

「ハウマッチ?」と尋ねると、「10ルピー」とのこと。驚くほど安い。思わず「安すぎる」と呟いてしまった。僕は、どうやら安さに感動する性格らしい。高級な料理よりも、こうした安くて美味しいもののほうが心に響く。満足した僕は、明日もまたこの店に来ようと決めた。

夜はいつものYAKレストランへ向かった。ここもまた安くて美味しい店で、すっかり馴染みになっている。今日はトゥンバというチベットの酒を試してみることにした。ゴマのような種にお湯を注ぎ、それをストローで飲む。ストローが妙に高くて飲みにくいが、味は悪くない。どことなく日本酒にも似ている。


21歳の夢

今日はインドビザを取得する日だ。朝早くから大使館に向かい、長い列に並んだ。手続き自体は思った以上にスムーズに進んだが、驚いたのは料金だった。合計で2600ルピー。事前に「地球の歩き方」で調べていた額の倍近い。国が運営しているのだからぼったくられているわけではないだろうが、えらく値上げしている。

部屋に戻り、特に予定もないので、宿で日記を書くつもりだったが、部屋が妙に寒い。外は暖かいのに、室内に入ると急に冷え込む。この寒暖差は、なかなか慣れない。暖を取るために、いっそ外に出たほうが快適かもしれない。

そこで、ダルバール広場に向かうことにした。ここは日当たりが良く、広場の階段に座ってゆっくり過ごすにはなかなか快適だ。しかし、観光客を相手に金を稼ごうとするネパールの子どもたちが集まる場所でもある。

案の定、広場に着くとすぐに子どもたちに囲まれた。7歳、9歳、10歳くらいの女の子たちが僕の進路を塞ぎ、「マネ、マネ」と手を差し出す。半分ふざけたような笑顔で言っているので、悪意はないのだろうが、しつこい。僕が金を出さないと分かると、今度は「写真を撮ってくれ」と言ってくる。「写真が好きだから」というが、簡単に信用するのはトラブルのもとだ。迂闊に写真を撮ると、お金を請求される。

高台に登り、腰を落ち着けると、すぐにいろんな奴が話しかけてきた。靴の修理屋がしつこく修理を勧めてくる。つま先のゴムの部分が剥がれかかっていたので、「修理すべきだ」と言うのだ。これくらい自分でできると断っていたが、「折り目をつけるとものすごくいい仕上がりになるぜ」と、あまりにもしつこい。50ルピーと言われたが、25ルピーで交渉して、「それでもいい」というので、修理してもらった。仕事を見ていると、なるほど子供といえでもプロである。ボンドでくっつきやすいようにノリシロンの部分を磨き、ボンドで接着した上から糸で縫い直した。思ったより本格的だ。

仕上がりに満足していると、「もう片方も直しておかないと剥がれてくるぞ」と言う。それもそうだと思い、言われるがままにお願いする。「かかとも減っているので、ここも補強すべきだ」とどんどん追加されていく。「全部でいくらだ?」と訊くと「250ルピー」とのこと。破れていた部分とワックス掛けもすべて含めて、200ルピーでしてもらった。

日本から持ってきた靴が復活した。かかとの部分のゴムが少し柔らかいので、すり減るのが早そうだが、ぶっ潰れるまで履き続けようかと思う。妙に愛着が湧いてきた。

靴を修理されている間も、いろんな奴が声をかけてくる。「トモダチ」「ハッパ」「ジキジキ」など、意味のわからない言葉を投げかけられる。「ジキジキ」の語源は分からないが、どうやら売春のことらしい。そして、それはネパール語ではなく、日本語だと思っているらしい。どこかで知識がねじれてしまったのだろう。

そんな子どもたちの中に混じって、20歳前後くらいで、一番柄の悪そうな奴が、時々声をかけてくる。

「キョウト」「キンカクジ」「ナラ」「トウキョウ」「ハラジュク」などと言ってくる。「なぜ知っているのか」と聞くと、「じゃあお前はなぜネパールを知っているのだ?」と返してくる。身なりも他のネパール人とは少し違う。なんていうのだろうか、普段着なんだろうけど、ピシッとしている。悪そうだが、清潔感がある。しばらく英語で質問をしていたが、突然流暢な日本語で話し始めた。なんと彼は日本語ペラペラだった。僕がこれまで話したネパール人もカタコトの日本を話す人は何人かいたけど、レベルが違う。

危なかった。もし僕が日本人の友人と一緒にいたら、日本語で多少なりとも失礼なことを言っていたかもしれない。しつこいとか、柄悪そうとか、態度悪いなあ、とか。

彼は日本語の弁論大会で3位に入賞したこともあるらしい。日本にも2回行ったことがあるという。仕事はツーリスト目当てのガイドだが、今は仕事は何もしていないという。

ガイド料はいくらなのか訊ねてみたが、金額は言えないという。ただ、客を満足させる自信があるので、皆たくさんくれるのは確かだという。

日本語を覚えれば得をすることが多いというので必死で勉強したが、今は別に覚えたい気持ちはないという。そこまでお金を稼ぎたいというわけではないのだそうだ。

僕は彼にもう少しいろんなことを訊きたかった。ただインド大使館へパスポートを取りに行かないといけないので、晩ごはんを一緒に食べないかと誘ってみた。

すると彼は、DIYLO RESTAURANTで友達と会う約束してるというので、18時くらいにそこで待ち合わせることにした。

18時にDIYALO RESTAURANTへ行くと、彼は先に来てチャイを飲んでいた。

いろいろ質問した。

彼は家族のことについてはあまり話したがらなかったが、小学校には4年間しか行けなかったそうだ。行かなかったのではなく、「I couldn’t」と言っていた。詳しくは訊かなかったが、経済的事情のようだった。

―なぜ今仕事はしてないのか

ガイドで儲けることはできるけど、今はあまりしたくない。

―十分稼いだのか

十分じゃない。もっと稼がないといけない。

―もっとってどれくらい

もっと、もっとだ。

―もっともっと稼いで、君に将来は何になりたいのか

何かになりたいとは思ってない。ネパールの社会に貢献したいと思ってる。だから今はボランティアのようなことをしている。

―どんなボランティア?

学校で子どもたちに英語を教えている。

―どうやってネパールの社会に貢献しようと思ってるの?

学校とか病院とかを創りたい。ちゃんとした教育ができる学校、ちゃんとした医療が提供できる病院

。ガイドという仕事が手っ取り早くお金を稼げるのだけど、もっと大きなお金を稼ぐには商売をしたい。輸出とか輸入とか、外国とつながって、商売をしないと、学校や病院を創るような大きなお金は稼げない。

彼には驚かされっぱなしだ。ネパールにいながら流暢な日本語を話せるのも、21歳にして学校や病院を創ろうとしていることも。

「君の将来がどうなるか知りたいよ」

僕は本気でそう思い、彼にそのまま伝えた。

彼は言った、「今はこう思ってるけど、将来のことなんて分からないよ。ネパールがどうなるかも分からないし、それは日本だってそうでしょ」

年下の彼に諭されたようで、少し気恥ずかった。

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