深夜の入国
ロイヤルネパール航空は、僕が空港に着いた17時半の時点でDelayedとなっていた。
モニターにはCカウンター受付と表示されているのに、出発1時間前になっても、そのCカウンターにはロイヤルネパール航空が存在しない。係の人をつかまえて訊ねてみると、Aaカウンターだという。どこにもそんな案内はない。訊かないと分からない仕組みはなんなのかと思うが、僕が見つけられなかっただけなのか。
ネパールに到着したのは、香港時間で、真夜中の2時30分。ネパールとの時差は1時間45分なので、ネパール時間でも0時45分。
チケットには22時40分着の予定となっていたので、2時間以上遅れているではないか。初めての国で真夜中に着くのはとても不安だ。
空港に着いてまずビザ申請用紙を記入し、25USドルを払って入国する。ビザはスタンプじゃなくて、シールだった。
荷物を受け取って、空港の外に出ると、真夜中だというのに人がたくさんいる。寒いのでジャンパーを着て、ポケットに手を突っ込んで、タクシーやらホテルの客引きが待ち構えているようだ。
夜中でバスも動いていないので、タクシーに乗ることにする。市内までは300ルピーだという。
ガイドブックの情報と同じなので、ふっかけられていないことに少し驚いた。空港の両替所が閉まっていたので、USドルで支払うことにする。
ドライバーに金を先払いし、レシートをもらった。ドライバーだと思っていた男は、実はドライバーではないらしく、さっさと車を降りると、別の男が2人、運転座席と助手席に乗り込んできた。なぜ2人なのか分からないが、そういうシステムらしい。
車が動き出し、行きたいホテルを伝えた。ガイドブックに載っているホテルの中から一番安いホテルだった「Stone House Lodge」を指定した。
だが、ドライバーは「そんなホテル知らない」という。そして「いいホテルを知っているので、そこへ連れて行ってやる」という。
いくらだ、と訊くと、8USドルだという。1USドルが50ルピーなので、400ルピーということだ。日本円だと800円くらいなので、十分安いのだろうけど、僕が行きたいホテルは50ルピーなので、比較すると、高すぎる。
断るが、しつこい。おそらく僕を連れて行くとマージンをもらえるのだろう。
そうこうしている間にニューロードという中心エリアに着いた。
「お前の行きたいホテルは知らないから、俺の紹介するホテルに行かないなら、ここで降りてくれ」
ドライバーは最後にそう言うと、僕を残して、去っていった。
さてどうするか。
真っ暗な街の中に一人降ろされ、ガイドブックの小さな地図を頼りにホテルを探さないといけない。道を訊ねられる人もいなく、店はすべて閉まっていて、オレンジ色の街灯だけが光っている。
野良犬だけがウロウロしている。僕が通るとやかましく吠え立てる。無視して歩いて行くと、野良犬が1匹から2匹になり、2匹から3匹に増え、いつもまにか5匹の野良犬が僕のまわりで吠えていた。
前方の道を犬どもがふさいでくる。さすがに怖い。
後ろに引き返そうとすると、野良犬たちは追いかけてくる。
僕が向かっていくと、吠えながら少し後退するが、どこかに逃げようとはしない。
困った。噛まれて痛いだけならいいが、狂犬病のことを考えると怖い。
その時、犬の後方から車がやって来た。ミニバンのタクシーだ。野良犬たちは車を避けて散っていった。助かった。つでにそのタクシーを停めて、「Stone House Lodge」の場所を訊ねてみたが、あっさり「知らない」と言われた。
僕は野良犬が散って静かになった道をまた前進した。
前から杖を持ったおじいさんがやってきた。杖でコンコンと地面を叩きながら歩いている。
こんな時間に何をしているのか。少し怖かったが、「ナマステ」とネパール式のあいさつをしてみた。
するとおじいさんは、僕がバックパックを背負っている姿を見て、「ゲストハウス?」と訊ねてきた。
僕は助けてくれという意味も込めて、「イエス、イエス」と激しく答えた。
「こんな時間だから、どこも閉まってるぞ」とおじいさんがいう。
「オーマイゴッド」と僕は少々おおげさに顔をしかめて、困ったことを表現した。
おじいさんは「OK。ついて来い」と言って、僕が来た道を戻った。そしてシャッターが降りて、南京錠までされているゲストハウスのシャッターの間から手を入れて、ブザーを押した。
何回か押すと、2階の窓から眠たそうな男が「WHAT?」と言って顔を出した。
おじいさんがネパール語で事情を話してくれたようで、男はシャッターを開け、僕をゲストハウスの中に入れてくれた。
杖の男は笑顔で立ち去った。親切なネパール人だったようで、とても助かった。
ガイド志望の苦学生
トリブバン大学の青年
朝の9時半に起き、10時に銀行へ行った。
100USドルをネパールルピーに替えると、5635ルピーになった。財布が札で膨れ上がる。成金になった気分だ。
街は昨夜と違い、たくさんの人々が行き交う。車もリキシャーもガンガンに通る。香港は夜の方が活気づくが、ここカトマンズは昼の方が活発だ。これが普通なのだ。僕は正常に戻った気分になる。
昨日行こうとしていた「Stone House Lodge」を探した。なんと昨夜野良犬たちとにらめっこしていた場所にあった。すぐ横に大きな看板がかかっているし、カタカナで「ストウン・ハウス・ロッジ」とも書かれている。
入口には子供しかいなかったが、棚には地球の歩き方や大川隆法など日本の本が並んでいた。
子どもたちが呼んで来てくれた宿のオヤジさんは日本語も少し話せる。部屋は2つ空いているという。どちらもシングルで60ルピー。
部屋を見せてもらうと、安いだけあって、きれいではない。そのうえ、狭くて、暗い。最上階の部屋も見せてもらうと、小さいながらもテラスがあって、そこには陽が差し込む。気持ちがいい。
僕はしばらくこの部屋に泊まることにした。
昨日の夜中にも関わらず泊めてくれたゲストハウスの主人にお礼を言い、「Stone House Lodge」に移った後、インド大使館に向かった。
ビザの発行に1週間ほどかかるし、もしNGになると、さらに1週間かかる。早め早めの手続きをしないと、旅の予定がどんどん変わってしまうのだ。
道の途中で、トリブバン大学の学生だという21歳のネパールの青年が、日本のことを教えてくれと話しかけてきた。釜山のときのこともあるので、先に金はないぞとしっかり伝えたが、青年は大丈夫という。
「インドと違って、ガイド料を後で請求することはない」青年は英語で言う、「ただ話を聞かせてほしいだけだ」
青年はインド大使館までついて来た。いろいろ僕に便宜をはかろうとするが、青年もビザの申請の仕方を知らないので、少し邪魔だ。
列に並んでいると、前に日本人の女性がいたので、彼女に訊ねた。
用紙をもらう列に並び、必要事項を記入し、今度は提出する列に並ぶ。そして300ルピーを払い、また1週間後に受け取りに来ればいい。という流れだそうだ。
インド大使館を出て、GPO(General Post Office:郵便局)に向かった。日本の知人が結婚するので、祝電を打ちたかったのだ。
青年はGPOにもついて来るという。ついて来て欲しくないのだが、青年にとっては、やっとつかまえたカモなのだろう。
悪そうには見えないし、なんとか役に立ちたいという気持ちは分かるので、小遣い程度なら渡してもいいかと思っていたが、いかんせん、何も役に立ちそうなことがない。
「ネパール料理の店を知っているか」
僕は小腹が空いたので、青年にチャンスを与えた。
青年はうれしそうに、僕をネパール料理の店に連れて行ってくれた。
ライスとカレーと野菜とポテト。うわさに聞いていたインド式のカレーのようだが、ダルバートというネパールの国民的料理だそうだ。
手で食べる人もいたが、スプーンで食べる人もいる。全員が手で食べるというわけでもないようだ。僕はいきなり手で食べる勇気が持てず、スプーンを使った。
カレーも野菜もライスも、なくなるとおかわりを入れてくれる。日本のカレーとは違って、シャバシャバで、豆の味が強かったが、それはそれでおいしかった。気分が悪くなるくらいに食べすぎてしまった。
食べながらも、睡眠薬を入れられるタイミングを作らないように注意していたので、精神的にも疲れた。
GPOへ行くと、電報はここではないという。青年が役に立とうと、どんどん聞いてくれるので、楽なのは楽なのだが、ただついて行くというのはつまらないものだ。彼には悪いが、やはり邪魔に感じる。
374ルピーで電報を打ち、今度は青年が街を案内するという。別に案内して欲しいわけではないのだが、どうにかして、僕がお金を払いたくなるように頑張っているのだろう。付き合ってやるつもりで、一緒に歩いた。
一緒に歩きながら、彼が話すことを聞いていると、だんだん気が重くなってきた。
彼はネパールという国が貧しいことを訴えてきた。政府が腐っているので、貧富の差がとても激しいという。家が金持ちならなんの問題もないが、彼の家は貧しいので、大学へ通うのも大変だ、と。実家がルンビニーにあるので、大学に通うためには下宿する必要がある。月2000ルピーも必要で、下宿代や生活費を稼ぐために、昼はこうやってガイドとして稼ぎ、夜中に必死で勉強するのだ、と。そして、自分を助けたい気持ちがあるなら好意としてお金をください、と言い出した。
こうやってガイドとして稼いでいる、というのが引っかかったが、まあそれはさておき、金が欲しくて、お涙頂戴の話をしてくるのは卑怯だと思った。
お金を稼ぐ根本は、他者貢献にあるはずなので、役に立つのを諦めて、貧乏話でお金を求めるのはちょっと違和感を持った。
僕が少し悩んでいると、彼は続ける。
日本人はここに旅行で来れるというだけで、すでにリッチじゃないか。勉強したいだけなんだ。少しだけでもいいから、自分を助けてくれと。
僕は彼が本当の苦学生なのか分からない。確かめる術もない。
だけど、この重苦しい空気から逃げ出したくて、そして自分が不親切な人間だと思われたくなくて、不本意ながら100ルピーを手渡した。
日本円にすると200円程度。だがこのネパールでは平均月収が2000ルピーということなので、100ルピーは1万円くらいの価値があるのではないだろうか。
お金を渡すと、青年は一通りの感謝の言葉を並べ、観光案内せずに去っていった。それはそれでホッとした。
渡してしまった後だが、お金を渡すことがいいことなのか、よくなかったのか、分からなかった。
もし彼がただの嘘つきだとしたら、日本人はいいカモだと思わせたことになる。日本人に限らず、ツーリストはお金に余裕があるだろうから、お金を稼ぐには手っ取り早いターゲットになるだろう。彼にっとても、ツーリストにとっても、よくないことをしてしまったような気がする。
女のひとり旅
夜、インド大使館で知り合った東京出身の日本人女性と、その友達で大阪出身の日本人女性と3人で、日本食を出すレストランで待ち合わせをし、一緒に夕食を食べた。
女性2人は、どちらもひとり旅で、ここカトマンズで知り合ったばかりらしい。3人でそれぞれの情報交換だ。
これまでの旅のことを聞いていると、女性のひとり旅は大変だ。
例えば、ミャンマー。レストランでひとりで食事をしていると、勝手にとなりや向かいの席に男たちが座り、じーっと顔を見られるらしい。外国人との接し方がよく分からないので、少し暗い感じで近寄って来るらしい。
例えば、インド。外国人からは何でももらってしまえ、という考え方があるのか、カバンでも服のポケットでも、勝手に開けて中の物を出そうとする。荷物を守ろうとすると、今度は体を触って来る。体を守ろうとすると、荷物に手が伸びる。荷物はなくなると困るので、乳のひとつやふたつ、もましてしまえって思い切り、荷物を守るそうだ。
大阪出身の彼女は、今回インドからネパールに来るまでのバスの中で、隣に座っていたインド人がずっと体を触ってきたという。やめてって何度も言ったが、全く聞いてくれない。彼女はその時、インドの辛い料理を食べて胃が痛くて苦しい状態だったため、抵抗するにも疲れてしまって、ずっとインド人に足とか腰とかを触られていたという。
その経験がものすごく嫌で、ネパールからインドに戻る時は、一人じゃなくて、絶対他の日本人と一緒に行こうと思っていたところ、バザールで日本人らしき東京出身の女性を見つけて、声をかけたそうだ。日本人で、しかも女性、さらにひとり旅、さらにさらに同じ日程でインドに行く予定があるというから、涙が出るほど嬉しかったと、興奮気味に話してくれた。
インドではほかにも、寝台列車で寝ていて、ふと目を開けると、インド人の男たちが、鈴なりになって彼女の顔をみつめてたという。
大阪の女性は特に、整った顔をしていたので、外国人から見ても興味津々なのだろう。
実際、一緒にご飯を食べている時も、となりの席のイタリア人のおじさんが、ずっと話しかけてきていた。次はポカラに行くというと、ぜひポカラで食事をしようと泊まるホテルを聞いてきたり、胃痛が消えないので先に一人で宿に帰ることになった際も、送っていくとしつこかった。
かわいい女性は大変だなと思う。
もし僕が女だったら、こんな旅ができただろうか。釜山で睡眠薬を飲まされたくらいなので、すぐに挫折しただろう。あるいは、お金を惜しまずに、タクシーや飛行機や、安全な移動手段を選ぶことになるだろう。そう考えると、女性の一人旅は本当にすごいことだなと思った。
子供の物売り
朝は寒くて動く気がしなかった。
11時くらいになって、ホテルを出たら、外は太陽がポカポカとして、とても温かかった。
僕は気になっていた日本食を提供しているレストラン「味のシルクロード」へ行った。胃の調子がよくなかったので、お粥を食べたかったのだが、メニューを見るとおいしそうだった朝食セットを頼むことにした。
白米と味噌汁、生卵、大根おろし、えんどう豆の胡麻和え、ホウレンソウのお浸しというラインナップだ。日本にいたら、こんな質素なメニューを選ぶことはなかっただろうが、日本を離れると、こんな質素な日本食が食べたくなる。
「味のシルクロード」はカトマンズでは一番有名な日本食レストランなので、客層も日本人が多い。レストランの中では日本語が飛び交っている。日本語の新聞もある。
本来ならもっと喜ぶところなのだろうけど、1週間前まで日本にいて、マニラでも同じような店を経験していたので、ありがたみは薄かった。
食事を終え、カトマンズの町をぶらぶらと歩いてみた。ただ歩いているだけなのに、いろんな人が声をかけてくる。もちろん声をかけてくるのは現地のネパール人なのだが、言葉は英語であったり、日本語であったり。
陽当りのいい旧王宮広場の近くで休んでいると、うるさいくらいに寄ってくる。
昨日経験したトリブバン大学の青年のこともあったので、できる限りはじめから相手にしないように気をつけていたが、10歳くらいの男の子に声をかけられ、ガイドをさせてくれって言われた時は、さすがにびっくりして、話をしてしまった。
男の子の名前はサミールという。サミールは、生き女神であるクマリのポストカードを見せ、「ここに行こう」と手を引いて行こうとする。
「お金が欲しいなら、ほかのツーリストを探してくれよ」
僕は何度もサミールに言ったが、どうも相手にしてくれるツーリストがいないらしい。少しでも相手にしてくれる僕から離れようとしない。
「クマリが嫌なら、猿のたくさんいる寺はどうだ」
「それが嫌なら絵はがきを買ってくれ」
とにかく離れようとしない。
相手が子供なので、やさしく「いらないよ」と断りながら、いろいろ話をしていると、その前に相手にしなかった連中も集まってきた。
「観光しないなら、その靴をくれ」
「じゃあその服をくれ」
「そのペンをくれ」
なんでもいいのか、とにかく「くれ」を連発する。
他のツーリストが通ると、何人かがこぞって声をかけにいく。そしてあっさり断られて、また僕のところに戻って来る。
「俺だって断ってるんやぞ」
そう言っても、すでにいろいろ話をしているので、「トモダチ」と言ってはまた物を請う。
僕はお金をあげるのはよくないだろうし、あげるような物は何もなかったので、折り紙で鶴を折ってやることにした。
「日本人はみーんなそれを作る」
子どもたちはバカにするなと言わんばかりだ。
だが、意外に大人たちの方が関心を持って「教えてくれ」と言ってくる。
僕はずっと離れようとしないサミールに一緒に写真を撮ろうと持ちかけた。そのお礼として、お金じゃなくて、コーラをごちそうすることにした。
だがサミールは「コーラより、ヌードルがいい」と言い、インスタントラーメンを選んだ。
そしてインスタントラーメンが手に入ると、さっさと去っていった。現金なものだ。
ネパールとチベットとヒマラヤを描いた油絵

豹変する男
朝食を摂るために、レストランへ行く途中に、ネパールとチベットと、その間のヒマラヤの山々を描いた、とてもきれいな油絵を飾ってあるギャラリーがあった。
1000ルピー以上もする値札が貼られているが、僕のとても好きなタイプの絵だった。細かく描かれた人や寺、家々。自分へのお土産のつもりで、インドに行った後、またネパールに戻って来る予定なので、その時に買おうと思った。
ギャラリーで仕切りに日本語混じりの英語で話しかけてきた男が、ギャラリーを出てからもついて来た。またか、という感じだ。
この男も大学生だという。おっさんみたいな顔をしているのに、22歳だという。嘘の香りがプンプンして、鼻がもげそうだ。
僕がレストランに行くと行っているのに、「トモダチ」「トモダチ」と言って、いろんな店に連れて行こうとする。宝石屋、服屋、絵画ギャラリーなどなど。どの宝石屋でもいいでのはなく、彼の知り合いの宝石屋でなければ「ここは高い」という。
鬱陶しいので、早くレストランを見つけて逃げたかったが、なかなかいいレストランが見つからない。そうこうしていると彼の友達という男がやって来て「この店が安い」と言って、僕に紹介した。
建物の屋上にテーブルやイスがセットされていて、陽当りも良かった。メニューを見てもべらぼうに高いというわけでもない。僕は少し怪しみながらも、腰をおろした。
ピラフが食べたかったので、ベジタブル・フライドライスを頼むと偶然にもそれが一番安いメニューだった。
彼とその友達は、目を見合って、明らかにがっかりした顔をしていた。50ルピーのベジタブル・フライドライスではマージンが入ってこないのだろう。僕は心の中で「してやったり」と思った。
彼らはほかのメニューも勧めてきたが、頑として断った。するとすごんできた。
「ルピーをくれ。ドルでもいい」
豹変した顔つきに一瞬寒気がした。屋上には一般客がいなかった。彼とその友達、さらに仲間らしき男が2人、計4人のネパール人と僕だけだった。
4人ともそれほどごつい体はしていない。ただ、一人は極真空手をしているという自称・強者だ。
乱闘を覚悟した。こんな奴らに多少であっても、絶対にお金を払うつもりはない。いざとなれば、大声を出す。すぐ下の通りには店が並び、ツーリストもネパール人もウヨウヨいる。
「なぜ払う必要がある?」
「この店を紹介してやっただろう」
「分かった。じゃあ何も食べずに出ていく」
僕が荷物を持って階段の方へ行こうとすると、「ワカッタ、ミルダケ、オーケーよ」と、知っている限りのやさしい日本語を使ってなだめてきた。
そして彼らは去って行った。
僕は誰もいない屋上にいるのが怖くなり、2階にある室内のスペースに移動した。数人の客と店の人がいた。
(こいつらもグルではないだろうか)
少しの不安はあったものの、上品な店員の接客を見て、それはすぐに解消した。
僕は中途半端なのだ。「いらん」とか「お金を払う気はない」とかそんな言葉を優しく言い過ぎたのだろう。もっと強く突き放さなければ、彼らはちょっとした隙を見抜いて食いついてくる。
これからインドへ行けばもっと激しいのだろう。ツーリストとローカリストとの戦いだ 。弱い方が負ける。気を緩めたら負けるのだ。
スワヤンブナート

朝に油絵を見てから、無性に仏塔へ行きたくなった。
カトマンズには大きな宗教的建物が3つある。スワヤンブナートとボダナートという仏塔と、パシュパティナートというヒンドゥー寺院だ。
地図を見て一番近くのスワヤンブナートへ行ってみることにした。
歩いて町から約20 分。小高い丘の上にその塔はある。
丘のふもとにはブッダの像がなぜか3体もある。ブッダの近くはチベタンエリアである。
長い石段を登ると中央のストゥーパ の周りに土産物屋や金箔の建物が並んでいる。そこから見るカトマンズの街はなかなか見晴らしがいい。高い建物がなく完全な盆地になっているのできれ いに一望できる。
邪魔するものがないのだ。狭い小さいと思っていたカトマンズの街も、上から見下ろすと意外にも広くて大きいものだ。街全体がレンガ色の風景だ。その周りを山が囲んでいる。落ち着く眺めだ。
日本人の団体が来ていてネパール人ガイドが説明をしだしたので、一緒になってそれを聞かせてもらった。
団体に混じって、後ろの方で僕がこっそりと聞いていると、近くにいたおじさんが僕を見つけて、「一人で来てるの?」と声をかけてくる。
勝手に団体に混じっているので気が引けたが、僕は短くはいとだけ答え、そのままガイドの話に耳を傾けた。せっかく説明してくれるガイドが いるのに、説明を聞き逃すのはもったいない。
石段の左右中央にはチベタンたちがたくさんいる。土産物を売ったり、中には物乞いをしたり、子供たちが遊んでいたり。
みんな貧しそうだ。僕は土産物売りの少女から石彫りのペンダントを買った。
表はブッダの目があり裏にはチベット語で神がどうのこうのと書いているらしい。
値段は100ルピ ーだった。少しもねぎらずに買った。少女の母親らしきチベット人がとても穏やかであまり押しつけがましいところがなかったことと、決して豊かな暮らしじゃなさそうだったからだ。
100ルピーは日本では200円ほどだから、日本式で考えれば安いものだが、彼らは高値を言ったのだろうか。
簡単にぼったくることができることを教えるのは良くないのだが、どうも穏やかな人に値段交渉はしにくい。
復路もまた、子供たちに捕まった。
金属のブレスレット売りの7歳の男の子は上手に英語を話す。僕のような日本人には、
「5個デヒャクルピー、タカクナイヨ」
と、日本人ツーリストあら習ったであろう、カタコトの日本語で訴えかけてくる。
ただどう考えても必要性はなく、ソーリー、ソーリーと何度も謝ってその場を去った。
火葬ガート

ボダナートへ行った。
世界最大の仏塔だというのでかなり期待して行ってみたのだが、スワヤンブナートと違って平地に建てられているため、宗教心の薄い僕には、ただ大きいだけという印象だ。
それでも地球を表しているらしい半球に登れるというので、登ってみた。
なるほど、スワヤンブナートと比べると確かに 大きい。半球の上をぐるっと歩いて実感する。宗教心の熱い人には聖地となるはずだ。
次にパシュパティナートへ行った。
ボダナートから歩いて 20分くらい。ヒンドゥ寺院だ。
それでも観光コースに入っているので、「ハローコンニチワ」「トモダチ」「ガイドいる?」などと、右から左から声がかかる。
彼らを振り切って火葬ガートへ行く。死んだ人を焼き、灰をそのまま川に流す場所だ。
朝しか焼かないと聞いていたので、火葬はしていないだろうと思っていたが、14時半に着いたのに今の今まで焼いていた形跡がある。
ガードの対岸に座って炭になった木を始末する様子を見ていると、14歳だというの少年がカタコトの日本語で話しかけてきた。
ガイドはいらないと言っているのに、僕の横に座る。仕方ないので他愛もない話をする。
話の流れでいつ火葬が見れるのだと訊いてみた。彼によると、24時間死体さえあればいつでも見られると言った。
今も橋の向こうに行けば見られるという。
僕たちは急いで橋の向こうへ行った。そこでは、さあ今から焼くぞというところだった。
橋の上や対岸は見物人で溢れ返っていた。
僕がさっきと同じように対岸に座ると、彼もまた僕の横に座った。そして、頼みもしないのに色々と説明をしてくれた。
火葬が 始まってしばらくすると、見物人は散っていった。全部が完全に焼けるまで3時間はかかるので、それまで付き合って見ている人はそうそういないようだ。
少年も毎日のように見ているので、退屈そうにしていた。なのに、どこかへ行こうとしない。
「君も火葬を見たいのか? なぜ、僕にいろいろ説明をしてくれるんだ?」
僕はそんな意地悪な質問をしてみた。少年はごまかすように笑ったが、金のことは言わなかった。
見物人が減った ので、僕はより見えやすいところに移動した。少年はなぜかついてこなかった。そしてしばらくしてどこかへ行ってしまった。そのまま僕の前に姿を現せなかった。
僕はいつ、どれくらいのお金を請求するつもりなんだろう、と考えていた自分がとても非情に思えた。いろいろ教えてもらったので、ほんの少しくらいなら払ってやってもいいと思っていたのに、警戒しすぎて少年に悪いことをしてしまった。
僕は弱いと分かっている相手を、手加減せずにぶん殴ったようなことをした気分だった。戦いに勝つのも難しければ、相手を見極めるのも難しい。
僕は3時間近く人が焼かれる様子を見ていた。もう少しリアルなものかと想像していたが、少し距離があったので、教えてもらわなければ、人が焼かれているようには見えない。布のようなもので包まれてもいたので、もちろん男性なのか、女性なのか、老人なのか、若いのか、そんなことも分からない。
焼いている人たちも淡々としている。家族はどこにいるのか分からないが、まわりの人たちの中にも、明らかに悲しんでいるという人の姿が見当たらない。特別なのか、これが日常なのか、初めてなので区別がつかない。
人の生涯が終え、灰になる様子を見届けたが、魂がなくなると、やはりあっけなく物体になってしまうのだなと思った。
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