【韓国・ソウル編①】いよいよバックパッカーの旅らしくなってきた

目次

ソウルへ

釜山からソウルへ

釜山からソウルには高速バスを使うことにした。

その日の電車の指定席が取れないことが分かると、ヨシダさんはすぐに高速バスで行くことを選択した。バスの乗り場に向かう際も道を訊ねながら探したが、ヨシダさんは頼りになった。よく愛想笑いをしてはいたが、動じない態度が旅慣れているようにも感じた。

ソウルでは、以前ヨシダさんが泊まったというテーウィン旅館に泊まることにした。ドミトリー(※)で8,000₩。宿のあちこちに欧米人が何人もいて、初めてやってきた僕には異様に感じる雰囲気であったが、ヨシダさんによると、どこの安宿も同じような雰囲気らしい。

※ドミトリー:相部屋の宿泊

2畳ほどの狭くて暗いスペースに大家らしきおばちゃんが、ドアも開けっ放しで、毛布だけかぶって寝転がっていた。

そのスペースの外では、欧米人、韓国人、日本人いろんな人種がウロウロしている。

ある一角には売店のような場所があった。机があり、机の上には小物がいくつも置かれていて、ドアにはぶら下げられるだけ服がかけられてあった。

ヨシダさんにこの一角は何かと訊いてみると、コンパートメントというらしく、長期滞在者用の部屋らしい。1〜2年コンパートメントで暮らす人は少なくないらしい。アパートを借りるよりもよっぽど安くすむらしい。ここで暮らしながら、昼間は英語教師などの仕事をしている人が多いそうだ。

本館は満室らしく、僕たちは別館に案内された。

僕たちの部屋は2段ベッドが4つあり、先客は黒人が1人いた。僕たちが少ししゃべっていると、その黒人はあからさまに不機嫌な顔をして布団をかぶった。

ヨシダさんと一緒に、昼ご飯を食べに行った。

韓国では、何か料理を頼むと、キムチやナムルがついてくることが多い。僕はチャーハンを頼んだのだが、白菜キムチやカクテキやナムルや厚揚げなど、小皿がたくさんついてきた。

それで2,500₩。高くはないが、外食を続けていると、お金がなくなるのが早くなるのは明らかだった。数日の旅ではないので、いろんな体験をしながらも、我慢も必要だ。

ヨシダさんとは別れて、僕は一人でソウルの街を歩いた。

韓国の英雄李舜臣将軍の銅像に見て、そこからシティホールを外から眺めて、いつの間にか屋台が立ち並ぶ市場に着いた。

生ダコとか、鳥のバーベキューとか、いろんなものが売られていた。少し前に昼ご飯を食べたところだったので、ほとんどやり過ごしていたが、せっかく市場に来たのだから、生ダコと巻き寿司のキンパを買ってみた。代金は7,000ウォン。日本円にして1,000円近い。意外と高いものである。

自炊

ソウル散歩

昨日不機嫌だった黒人はガーナから来ているクリスチャンだった。名前はイマというらしい。顔は怖いが、挨拶して、少し話してみると、悪い人間ではなかった。ビジネスで韓国に来ているという。

イマは朝も早いうちから起き出して、何やらごそごそしているかと思うと、10時くらいに教会へと出かけて行った。

僕も同じくらいに出かけて、昨日と同じようにソウルの町を歩いた。

ソウル駅を目指したが、なかなか見つからず、結局たったひと駅だったが、地下鉄に乗った。

いくつもの国をまわるので、かさばるガイドブックのようなものは持っていなかった。地図もなく、どこに何があるのかもまったく分からない土地では、歩いている目的を見つけにくかった。

日曜日だというのに、観光案内所はことごとく閉まっていた。大韓門の前の案内所でようやく地図が手に入った。

地図が手に入ると、ようやく地理関係が分かるようになった。ただ、そうなると次はガイドブックが欲しくなった。ガイドブックの情報があった方が圧倒的に効率的だし、観光地にしても、歴史や背景を知っていた方が満足度も変わってくる。

大きな本屋を見つけたので、そこで地球の歩き方の韓国版を立ち読みして、次に訪れる中国版を購入した。

それにしても、まわりの人の顔も日本と同じようだし、書店では日本の本がずらりと並んでいて、外国にいるような気がしなくなる。

イマに自炊を教わる

宿に帰ると、イマがご飯を食べていた。弁当ではなく、アルミの皿にご飯を盛り、缶詰をおかずにしていた。

「それは自炊か?」

僕が訊くと、イマは「そうだ、お前もしたいのか」と訊いてきた。

「したい」と僕は即答した。

イマは残りの缶詰を米の上にぶっかけて、さささっと平らげると、食器が置いてある場所に案内してくれた。そこにはボコボコにへこんだ鍋や皿などが置かれてあり、宿泊者が共同で使っているようだ。そしてガスコンロも置いてある。

僕は近くのスーパーマーケットで米とサバの缶詰を買ってきて、鍋でさっそく米を炊いた。キャンプで米を炊くことには慣れていたが、鍋には蓋がなかった。

イマに蓋はどこかと訊ねると、イマはどんぶりを取り出し、鍋に被せ、これで大丈夫だと言わんばかりに、親指を立てた。

米はどんぶりの蓋でも案外うまく炊けた。サバ缶と白ご飯だけの夕ご飯は味気ないものではあったが、これから始まる貧乏旅行では、こういう節約も覚えておいたほうがいいだろう。

ただ、食器類に決して清潔感がないのは気になるところだった。

清潔感でいうと、韓国で気になったことがもう1つある。トイレだ。

全体的きれいトイレが多いのだが、トイレットペーパーではなく、ティッシュで尻を拭かなければならず、しかもそれを流すと詰まるらしく、設置されたゴミ箱に入れなければならない。

自分のウンチがついたティッシュでさえ見るのも嫌になるのに、ゴミ箱には他人のウンチがついたティッシュが入っているのは、決して気分がいいものではなかった。

中国に行けば、もっとカルチャーショックを受けるだろうから、これくらいは早く慣れて置かなければならない。でも、しかし、僕はこれに慣れることができるのだろうか。

ソウルで本場の銭湯”チムジルバン”を体験する

ヨシダさんに誘われて、銭湯に行ってみた。韓国ではチムジルバンというらしい。

韓国では朝風呂が習慣になっているらしく、朝7時から開いていて、夜20時ごろまでやっているそうだ。リラックスや健康促進を目的としているらしい。

日本の銭湯のマークといえば、「ゆ」という文字を象ったものが一般的だが、韓国では散髪屋のシンボルマークである、赤・青・白の三色の螺旋状の柱が銭湯のシンボルになっている。

宿のすぐ近くの銭湯に入ったのだが、大きくと、きれいで、いわゆる銭湯というより、健康ランドやサウナのような施設に近い。ヨシダさん曰く、韓国の風呂屋はどこもこれくらいに立派だそうだ。

1階で料金を支払い、ロッカーのキーをもらい、服を脱ぐ。タオルも石鹸も2階の浴場にあるというので、真っ裸のまま浴場へ向かう。日本人はタオルがなければどこか不自然な感じがするが、韓国人は堂々としたものである。

浴場は日本とまったく同じで、いくつかのシャワー付の蛇口があり、そこで体を洗い、中央に溜まり湯がある。熱い湯と少しぬるい湯と、水の溜まりがある。

僕は入らなかったが、奥にはサウナとスチームバスの部屋がある。そこから薬草の香りが溢れ出ていて、浴場全体がその匂いで包まれている。

僕が珍しく思えたのは、アカスリだった。この風呂屋にも隅の方にそれがちゃんとあった。診療台のような台に真っ裸のまま寝ると、紺のパンツ1枚だけを身に着けた若い男が、アカスリタオルでごしごしと手の先から足の裏まで、腹も背中も、ていねいにしごいてくれる。

ちんちんはどうするのかと見ていると、そのまわりはちゃんとしごくが、ちんちんそのものには触れる様子はなかった。

真っ裸でしごかれる様子は、まるで寝たきり老人の介護のように見えた。ちなみにヨシダさんは囚人のようだと思ったらしい。

次の目的地

ヨシダさんの帰国

神戸を出発してから1週間が経過した。まだたったの1週間。先はまだまだ長いことを実感している。

今朝早くに、ヨシダさんが日本に帰った。

昨夜実家に電話したら、就職面接を受けた企業から採用不可の通知が届いたことを知らされ、気軽に旅を満喫している場合じゃなくなったようだ。面接はよほど自信があったようで、落ち込みがひどかった。

楽しい旅が一変し、ヨシダさんは軽く挨拶だけ済ませて、そそくさとテーウィン旅館を後にした。

僕はまだ旅に慣れているわけではなく、急に不安になり、淋しくなった。また一人ぼっちになってしまった。

中国ビザ申請

10時半ごろ、僕は中国大使館に行き、ビザの申請をした。

韓国語も中国語も全くできず、英語も幼児程度の僕には、それはとても困難だった。困難なのは僕の相手をさせられた大使館の女性も同じで、英語もろくに理解できない僕にイライラし、呆れるようでもあった。しかしながら、諦めずに対応してくれ、僕はなんとか申請を済ませることができた。

ただビザを受け取れるのは1週間後という。あと1週間もここ韓国で過ごさなければならないことに、僕は悲鳴をあげたい気分になった。

昨夜遅くに、中国の天津から仁川に着いて、テーウィン旅館にやって来たベルギー人の情報によると、3日後のフェリーを逃すと、天津行きは1ヶ月後までないという。

中国のビザを受け取れるのが1週間かかるとなると、天津行きは諦めなければならない。残る航路は青島か、威海だが、その情報を電話での会話で理解できるほどの語学力は確実にないので、直接仁川に行って調べることにした。

仁川までは地下鉄で1時間だった。駅からフェリーターミナルまで歩いて15分程度。ターミナルは韓国人と中国人でいっぱいだった。日本人を探したが、それらしき旅行者は見当たらなかった。

案内所のようなところもなく、受付のところには乗客が列も作らずに押しかけていた。僕がその中に入って順番が来るのを待ったとして、急かされた状態で必要な情報を得る自信がなかった。

船会社の事務所を見つけて、そこで身振り手振りで中国に船で行きたい旨を伝えた。

時間はかかったが、得られた情報として、青島行きの船は毎週土曜日だけなので、僕が乗りたい来週の火曜日だと、威海行きしかないという。

威海ってどこかも知らない。だけど、中国のビザが発行される日に、韓国のビザが切れるのだから、この日に乗って韓国を出るしかない。

中国のビザが無事発行されるのかも不安だが、当日になって船のチケットが取れないのも不安だ。だから、とりあえず、仁川から威海の船のチケットを購入することにした。

船のチケットは80USドルだった。

テーウィン旅館の住人

昨夜20時ごろ、僕が寝泊まりしているドミトリーに、ニュージーランド人と日本人がやってきた。ヨシダさんが日本に帰り寂しかったので、とてもうれしかった。

ヤマウチという日本人の彼は、広島の銀行員で、1週間の休みを利用して韓国に旅行に来たのだという。海外が初めてで、ヨシダさんのようには頼りにならなさそうではある。

ニュージーランド人のジェームズは、9月から大阪で英語を教える仕事をしているらしく、日本語が少し話せた。僕と同い年で、誕生日も1日違いだった。こういうのを英語で、「アメージング」というらしく、ジェームズは「ベリーアメージング」と何度か言っていた。

ヤマウチくんは、朝早くに釜山に向けて出発していった。

僕は明洞に行き、2,000₩でズボンを買った。全然値段交渉をしなかったので、少し悔やんだが、宿に戻って足を通してみると、なかなかどうして、生地の肌触りも、ゆったりしたシルエットも、いい感じだった。タグにはMADE IN USAとある。僕は素直に気に入った。これで日本円で3,000円しないなら、お買い得だと思う。

夜21時前、ドミトリーにはスリランカ人が二人やってきた。ジェームズと英語で会話しているのを横で聞いていると、どうやらなにかスポーツのインターナショナルチームらしい。

インターナショナルチームの彼らが安宿に泊まっているのは、お国の経済事情らしい。

だけど、そんな事情とは関係なく、彼らの態度はあまり好ましいものではない。態度が横柄かというのではなく、紳士ではないのだ。よくしゃべり、なんとなくだが、ずる賢い感じがする。

言葉の壁によって、コミュニケーションが十分にとれない点は否めないが、同じ黒人でもイマとは印象がかなり違う。

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