VOL.33 1996年12月5日 成都
「旅は苦労しなければ面白くない」
せっかく50元の高級ホテルに泊まっているのだからと、今日は3度もシャワーを浴びた。
部屋に暖房設備はないが、むき出しのコンクリートではないので、西安で宿泊していた勝利飯店よりはずっと過ごしやすい。少々寒くても、温かいシャワーを浴びれば復活する。
昼にムラウチさんと包子の店に行った。ムラウチさんは観光地を巡る僕のことを大学生みたいだと言ったり、乞食について考える僕のことを日本人的考えと批判するが、自分はガイドブックを見て、そこに載っている店に行きたがる。
「旅は苦労しなければ面白くないよ」
と言いながら、英語のメニューを見ることに反対するくせに、自分はガイドブックの料理の写真を見せて、注文をする。
どうもポリシーがあるようには見えない。
成都の町で大激論!?
同室にはもう一人、カナダ人がいる。ムラウチさんはヘタクソながらも、カナダ人とちゃんと英語で話す。だから英語を話せる環境にいたのかと思い、以前から訊きたかったことを思い出した。
旅をしていると、英語で話すことが少なからずあるのだが、いろんなシチュエーションで、英語ではなんていうのだろうかと、もどかしいことがある。
「こういう場合は、英語でどういうんですか」
という意味の質問を英語ではどういうのか、ムラウチさんに訊ねてみた。
すると、どうやら分からなかったらしく、返ってきたのは「そういうちゃんとした英語なんか使わないよ」だった。
せっかく外国人と話す機会が多くあるのだから、ちゃんとした英語を学びたいではないか、と僕が言うと、ムラウチさんはこう返す。
「なんでももったいないと思うのは、日本独特の合理主義だよ。米粒だって、日本人はきれいに食べてしまうけど、外国ではそれはいやしいことなんだよ」
ちょっとずれている。
話が長くなりそうだったけど、僕はさらに言った。
「もったいないと思う心は素晴らしいし、米粒を最後の一粒まで食べるっことがいやしいことだとは、絶対に思わん。日本にもいい文化と悪い文化があるのだろうけど、これはいい文化だと思う。ちゃんとした英語も学べる機会があるのに、わざわざブロークンだけ覚えてしまうことはないではないか。ちゃんとした英語が話せることは、ケンカが強いことと同じで、一生のうちで使う機会は1%にも満たないかもしれん。だけどその1%の、いざというときに、その力が発揮できてうれしいことだってあるではないか。それが何かのついでというなら、合理的な考え方は素晴らしいことではないか」
ムラウチさんは、「まだ日本の感覚だね」とあっさりと話を終わらせた。
それは、僕が海外を旅したいと言った時、そういうことをしたことのないおっさんが、その価値観を理解できずに、「まだ若いなあ」と言って、鼻で笑っていたときによく似ていた。
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